遥拝所の枠から御許山が見えるはずですがご覧のとおり、前にある大きな御神木の為に視界が遮られています。
ちなみにフレーム左側に御許山はあります。よく見えてません。すいません。


 御本殿と向かい合わせに「宇佐嶋」と呼ば
れる「御許山」(おもとやま)があります。
こちらに「大元神社」があり文字通り「おお
もと」であり宇佐神宮の元宮であるといわれ
ています。『大元神社遥拝所』と称して神宮
発祥のお山を望む事が出来ます。

 宇佐神宮は三つの巨石を比売大神の顕現とし
て祀る御許山山頂の奥宮・ 大元(おおもと)
(=御許:おもと)神社の麓に位置し、豪族
宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうと言
われている
この「石体信仰」(しゃくたいしんこう)が
鹿児島神宮の元宮であり同じく原始信仰の拠
点と思われる「石体神社」との関わりも見え
隠れする。





 




 
 八幡信仰は日本の神仏習合思想の典型であると思いま
す。
御神徳の1つでこの御祭神の大きな役割としてに「仏法守
護」があります。実際、宇佐神宮の御由緒にあるように
「奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使和気清麿公に国体を
正してゆく神教を賜ったこと」や本地垂迹の考えから「弥
勒菩薩」を八幡様と同体とする考えもあり、神宮弥勒寺を
建てられたりするなど深く仏教との関わりがあったわけで
す。
 上の映像のようなお坊さんの姿をされた「八幡大菩薩」
も存在します。 
 参拝時の感覚として八幡様から仏様やお寺のイメージを
強く感じるのはそのためでしょうか。


奈良国立博物館蔵

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 冒頭でも書きましたがこの写真撮影時は10月初旬の仲秋祭(ちゅうしゅうさい)の初日の日であり、午後三時頃には本殿下の西大門前などから神輿が挙がっていました。当日はそのこともあって祭りの見学者も多数おり大変な人出でした。
 そもそもこの「仲秋祭」とは
 明治以前まで「放生会」と呼ばれていた祭典で、養老4年(720)大隈・日向の隼人(はやと)が反乱を起こしたとき、朝廷の祈願により八幡神は託宣を下し、鎮定のため同5年両国に行幸、3ヵ年にわたって抵抗する隼人を平定して、同7年御還幸になられた。
 このとき、百人もの隼人の首をもち帰って葬った所が、神宮より西約1キロの所にある「凶首塚」です。また、すぐ下に「隼人の霊」を祠る百太夫殿が、その後造立されました。現在の『百体神社』です。 さらに、神亀元年(724)「隼人の霊を慰めるため放生会をすべし」との託宣があり、天平16年(744)八幡神は和間(わま)の浜に行幸され、蜷(にな)や貝を海に放つ『放生会』の祭典がとり行われました。これが「放生会」の始まりです。
 今回の参拝ではじめてこの御祭りに接する事ができました。少なくとも、このお祭りが自分自身の生まれ育った地の民族のルーツを供養する御祭りであることに筆者としてはなんとも感慨深いおもいです。「今回の参拝はよばれたのかな?」そうおもった「隼風」でした。